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2025年08月10日戦前編では国家が個人の夢を奪い取ったが、戦後編では人々が希望を追い求めている。朝ドラことNHK連続テレビ小説「あんぱん」のことである。ヒロイン・柳井のぶ(今田美桜)の夫・嵩(北村匠海)は漫画家を目指している。だが、手嶌治虫(眞栄田郷敦)の漫画を見て、あまりの天才ぶりに愕然とする。どれくらい天才だったのか。
手嶌治虫のモデルは手塚治虫さん。1928(昭3)年に大阪で生まれ、1989(平元)年に逝去した。「天才」、あるいは「漫画の神様」と称された。嵩とそのモデル・やなせたかしさんより9歳若い。
嵩が第91回で読み、衝撃を受けた漫画は手塚さんによる『新宝島』だった。発売されたのは手塚さんが19歳のときの1947(昭22)年。当時の手塚さんはまだ大阪帝国大学附属医学専門部(5年制)の学生だったから、嵩は余計に打ちのめされた。
もっとも、『新宝島』に衝撃を受けたのは嵩ばかりではない。『サイボーグ009』の石ノ森章太郎さん、『ゴルゴ13』のさいとう・たかをさん、コンビで『ドラえもん』を生んだ藤子不二雄さんたちもそうだった(いずれも故人)。
全く新しい漫画だったからである。『新宝島』はピート少年が死んだ父親の遺品の中から地図を見つけ、それを頼りに宝探しをする物語。ピートが波止場へ向けてスポーツカーを走らせる場面から始まった。
手塚さんはこの車とピートをさまざまな角度から何度も描いた。斜めから、横から、後ろから。それによって車が本当に疾走しているように見せようとした。今でこそ基礎的な技法だが、『のらくろシリーズ』(1931年)や『冒険ダン吉』(1933年)など戦前の作品では考えられなかった。
加えて車やピートら登場人物を大きく描いたり、小さく描写したり。まるでアップからロングへと切り替える映画のカメラワークのようだった。
この技法により、2次元の世界である漫画に立体感と躍動感を生んだ。さいとうさんは『新宝島』を読み、「紙の中で映画がつくれる」と考えたという。コマ割りも新しかった。それまでの漫画は1ページを4コマや6コマ、8コマ、12コマなどにほぼ等分割していたが、手塚さんは等分割の常識を無視。大小のコマをつくった。これによって車や人物などが大きく描きやすくなった。
まだある。
続きはソースをご覧ください
手塚治虫が亡くなったのが89年
たぶん、漫画家として認知してなかったよね
手塚を舐めない方がいい
どう認識してたかはわからんけど知ってただろう
>>8
あんぱんでも取り上げるだろうけど虫プロの長編アニメ映画のキャラデザインと美術で抜擢。その後やなせ先生初演出アニメを自腹切って作ってる。
絵本アンパンマン発表の3年前
1969年(昭和44年)、虫プロダクションの劇場アニメ『千夜一夜物語』制作の際に、エ口チック路線を求めていた手塚治虫は、やなせの漫画を気に入り美術監督として招き入れた。同作がヒットしたお礼として、手塚はポケットマネーで、やなせが1967年に手掛けたラジオドラマ「やさしいライオン」をアニメ映画化し、毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞[4]。同作はやなせの代表作のひとつとなっている。
ですと
いつ出てくるんだよ
祖父、1886年関西法律学校(関西大学の前身)の創設メンバー
漫画家なのか?
あんぱんは終わってしまえば過去の朝ドラの一つでしかなくなるけど
おむすびは視聴率の話題が出るたびに「これまでの最低視聴率は…」ってタイトルが出続けるからある意味いいよなw
今後もタイトル名だけは知られていくだろうな
これまでその座はウェルかめだったがようやく変わった
アンパンマンは多分何十年後経っても全子育て世帯がお世話になるからな
そりゃゼロからってわけじゃないんだろうが
ありえない
もし本当にそんなことできる勉強の才能あれば
学歴が本当に大阪大学医学部になってたと思うよ
いい加減、昼休みの食べ終わって仮眠とる時間にヲカマが喋ってるような『エセ土佐弁』やめてくれよ。
高知県出身者は気持ち悪くて寒イボでてるから。
水木プロとかはようやっとる
手のひらを太陽にの作詞したり、舞台監督やったり脚本書いたり
ごめん、絵と言葉がズレるってどういうこと?
日本だけ漫画という文化が発展して多様化してるのは
やっぱり手塚治虫が道をつくったからだと思う



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